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「私」の就職活動

「私」の就職活動
就職活動は深い内省を促すため、かえって自分の気持ちがわからなくなったり、自分の欲望を見失ったりすることがある。就職活動にまつわる悩みは、ほとんどが就職活動に固有の悩みではなく、もっと一般的なものだと思う。その前提で悩みに向き合ってみた。

就職活動に苦しんでいる人へ

この文章は、就職活動をする中で相反するような複数の観念や気持ちによって自己が引き裂かれるのを感じ、苦しんでいる人に向けて書いたものである。

たとえば、大学で専攻した物理学は素晴らしいと思う、と同時に大嫌いだ。田舎で暮らしたいけど、都会でも暮らしたい。働きたくない。テクダイヤで働いてみたい。商社で働きたい。テレビ局でも働きたい、あるいは働きたくない。企画も技術開発もやりたい。アルバイトをしながらバンド活動をしたい。画家になりたい。家賃収入だけで暮らしたい。やっぱりテクダイヤで働きたい。そんな渾然として曖昧な気持ちが湧き上がっては消える。こんな風にわかりやすく言葉にできる気持ちはほんの一部で、背後には言葉にならない巨大なものが渦巻いている。それを愛してはいるものの、苦しんでもいる。そうした人のために書いた。何か楽になるための技術を記すものではなく、苦しみに自分を馴致していく過程を描くものである。

「私」について考えると、複数の「私」が現れる

「私の就職活動」という題名が与えられたことは、就職活動が常に「私の就職活動」でしかあり得ないことを仄めかしていると思う。「みんなの就職活動」というものは存在せず、常に「私」にとっての就職活動が問題となる。

では、ここで就職活動をする「私」とは一体どのようなものだろう。

大学生の私、読書が好きな私、テニス部の部長だった私、飼っている犬に愛されている私、くすんだ色の服が似合う私、走るときにだけ靴紐を硬く結ぶ私、家族の中でいちばん声の大きい私、就職活動に思い悩む私。様々な私がある。ここで重要なのは「様々な私」それ自体だと思う。私とは何かというのを言葉にしようとすると、必ず複数の「私」が現れる。

複数の「私」は複数の観点から現れる

いま列挙したいくつもの「私」たちは、まったく同じひとりの人間を指している。なぜひとりの人間からいくつもの「私」が出てくるのだろうか。

そうした無数の「私」は、自分が立つ観点の違いによって現れるものである。同じものでも、立つ観点によってまったく違う意味が現れてくることは誰もが経験していると思う。

たとえば、ノートは基本的にペンを使って文字や絵を書き込む物である。だが、ある真夏の午後、微かに塩素の香りがする、エアコンの故障した教室で汗だくになりながら退屈な授業を受けるとき、不意にノートは、仰いで風を起こして涼むための物になるだろう。ノートとは何かという問いの答えがひとつ増え、複数の意味を持つようになるのだ。

私についても同様で、たとえば自分のことを「私は頑固だ」と思っていたけれど、親友に「芯があるね」と言われて、「芯がある私」として自分を捉えなおす。そんな風に外部との関係の中で新しい観点を獲得して、違う「私」に出会うということはよくある。

以上のように、人間は自分自身に対しても、他人や物体に対しても、無数の異なる観点に立つことで、様々な意味を取り出すことができる。人間を他の動物と区別するのは、こうした複数の観点に立つ能力の異常な高さである。

複数の観点に立つことができるが故の苦しみ

この文章を始めるきっかけとなった、複数の自己に引き裂かれるような苦しみ、それは人間が極めて多くの観点に立つことができるにも関わらず、身体をひとつしか持たない、という点に原因があると思う。私たちは、ひとつのものごとに相反するような意味を見出すことができてしまう。あるいは、自分の中で同時に相反する複数の感情が湧き起こってくる。それなのに、私たちの身体はひとつしかなく、同時にひとつの行為しかできない。そうした、身体の単数性とその内部に抱える複数性との間の決定的な齟齬が、苦しみの原因である。

就職活動をする「私」を救い出す

就職活動をする「私」とは結局のところ何者なのだろうか。それは、いくつもの「私」を出現せしめたような「私」。つまり無数の異なる観点に立つことができるような、豊かな想像力を持つ「私」である。

こうして、まず、様々に考えてしまうたくさんの「私」の中から、観点を選びとるような「私」を救い出した。そう考えると少し苦しみと距離を取れる気がする。