3Hって何?

デジタル VS オカルト

デジタル VS オカルト
なんでそういうことになるのかな~ということを頻繁に思う今日この頃。(具体的なことは言いません)
そんな時に、ふと昔あったあんなことこんなことを思い出して。

仕事の話が起因ではあるものの、中途半端な技術論とかリテラシーとか書きたくないので
自分ノスタルジー

いつもの事ながら、技術的要素ゼロ案件
駄文

そろそろちゃんと老害

懐かしの2大要素

唐突に、麻雀のはなし

最近Mリーグなるものがメディアなどにも登場してるようで。意外とそっち方面の話も世間的にはまま話しやすいかも、と勝手に思ったり。で、仕事上のなんだかなぁ的な思いに絡めて、昔話を一筆。最近の麻雀トレンドは知らないので内容的には時代錯誤だろう、と思いながら実際は今でもこんな話って意外とあったりするかも、とか。(今現在の潮流はご容赦を)

 

”デジタル” と ”オカルト”。

この2つの並びで、「あ、麻雀のハナシね、」って思える人は、2000年(平成12年)頃ある程度の頻度でフリー麻雀や競技麻雀に触れていたんではないでしょうか?(と思います、違うかな。)

当時、自分は〇〇です、って公言する人がいたり(といっても自分周りのいわゆる”若者”の括りのはなしです)。ただ逆に、年配(ベテランの打手)の方々がそういう事を公言したり意識してるなって感じたりすることは、自分の記憶にはあまりないですが。

見出しには”2大要素”って書きましたが、別に世間的にそうだったのかは知らなくて、自分の周囲とか通いの店の中でそういう話題が上がることが多々あったなぁ、という思い出しの範疇です。「2000年からある言葉ではない。そもそもどこそこ界隈でのみ使用された用語云々・・・。」みたいなのはちょっと・・・。

もうちょっと脱線して。デジタル・オカルトという2語が対極にある、という構図を私自身が強く意識するようになったのは、片山まさゆき氏 著『牌賊!オカルティ』(竹書房)でした。(思い返しても、漫画の内容はほとんど思い出せないですが、メロンソーダ氷抜きを頼むのは真似してました。あと、爆牌党の方が好きでしたし、今もそっちの作品だったら内容覚えてます。)

 

話を戻して、麻雀における”デジタル”は、(当時は)イコール『理論派』という位置付け。”オカルト”はその逆、と思ってもらってもいいんですが、『非理論派』ってよりは『反デジタル雀士』という。(ちなみに、一般的な社会的事案/考え方に照し合せるとこういう用語説明は突っ込みどころ満載なのはわかっています。ですので、本当の意味での『デジタル』、対極にあるのは『アナログ』とは全く別の世界のはなしです。)

だいたい『デジタル雀士』とか、そもそも『雀士』(笑)とか??そういう業界があった、というはなしで。(雀士ってことばはもう使わないんでしょうか、どうなんでしょうか)

麻雀における”デジタル”要素

ここで、”デジタル”の掘り下げをもう少し、浅目に。

前述のとおりデジタルな雀士とは『理論派』ということ(でいいかなと思います)。

じゃあ、麻雀における”理論”ってのはなんなのか。人によって語り口がかなり多様、捉え方も独特、というのが”麻雀の理論”の特色(と言わせて欲しい)です。ので、実際のところ、ここで言ってるデジタル派としての『理論派』は、ごく一部の人たちのことです。

ちなみに、世の中には”定石”ってことばがあります。麻雀にも”定石”と言っても良いものがあります(あるということにさせてください)。
ただし、”麻雀の定石”なんて云ったところで、起源はせいぜいが70~80年前。ご存じの方ならわかるでしょうがこれって理論的とは言い難いものなのです。個人的見解として、囲碁なんかに比べると、麻雀の定石なるものは怪しい、というか冗談半分のような。いやいやある程度の実践の結果に基づいている、という方もいるのかもしれないですが、今回の話としては”オカルト”側とさせていただいて、そこは後ほど。



で、当時麻雀における”理論”と言われたのは何だったか。端的に言ってしまえば、確率論的に状況や結果を解釈し説明するのが”理論”。そしてそういった確率論的(場合によっては統計的と言い切る人たちもいた)な分析を主体に麻雀を語るの様子を、理屈っぽい奴ら(よく言えば学術っぽい)とみている人たちが、あえてポジティブに表現したところが”理論派”ともいえるし、まぁだいたい本人たちで理論派を自任していたり。

そしてその”理論”を用いる人たちが当時は”デジタル”雀士と呼ばれた、または名乗った、というところ。
ただし、前述のとおり、いわゆる理論・理屈なんてのは麻雀においては多種多様。なのでいろいろな理論派の中にデジタル雀士というくくりがあった、当時の風潮はそんなところ。携帯電話にカメラが付き始めた時代のデジタル感(麻雀界においては)ってそんなところでした。

オカルトの話

いつの時代も、どんなことでも、こっちの方が人を引き付ける力があるようです。七不思議しかりオーパーツしかり。非科学的なことはどういう解釈も成り立つのでとっつき安い。そして、ある意味真に”正解にはたどり着かない”ために自由度も高く敷居を意識せずに受け入れられるのかな、と思います。

そこまで幻想的な話でなくとも、オカルト要素は今現在の日本プロスポーツ界にも多々あります。曰く、あの場面の継投が、一本のフリーキックが、ティーショットの前の振る舞いが、前走のあがりが、立会の雰囲気が、云々。そして象徴的なのは”流れ”という言葉。「流れが変わった」、なんて表現はかなりの頻度で耳にします。勝負の”アヤ”である、”アヤ”が付いた、なんてフレーズも同様でしょうか。これってオカルトだと思いますし、麻雀の世界でも良く言われることと類似しています。そしてこの手の話はベテラン・実績ある経験者・有識者・レジェンド、こんな方々が当たり前に口にするわけです。

 

実績ある人、実力者、権威、みたいな人達がこぞってそんなことを言うもんだから、いよいよシロートには腑に落ちるんでしょうね。実績ある人達って、場合によっては解説の導入部分では”理屈”で丁寧に説明してくれる方々もいるんです。「ボールがこう来てるときに回転がこっちだから、体をこう入れて、足はこういかないと肩が付いてこない、腰が突っ張るから、一歩目が・・・。」なんて体の仕組みを事細かに交えて説明してくれたり。なのに、極端に悪い(良い)結果が出たりすると、「流れが悪かったよね」って結論にしたり。「流れ」とは言わずに、心理状態(メンタル)に影響があって、それで動けた動けなかった、そんなお話をされる方もいますよね。

いろんな方がいます、当然です。説明できるけど、時間的な配慮なんかがあっての「流れ」という一言で済ませちゃう方。物事には必ず「流れ」があるから、それを信じて疑わず重要視してそれを考えとして必ず言う方。「流れ」って言葉は自然科学的な説明が不十分と考えてても、その言葉の存在は認めつつ敢えて使わない方。

と、ここで麻雀回帰して。麻雀は兎に角この「流れ」はよく聞きます。半荘一回(または東風一巡)でもし解説とかあったら絶対言われる(と思う、当時は)。まぁ、いわゆる「勝負事」には流れはつきもの、ということは言いますけど。(英語圏のカジノとかではギャンブラーが「Run」という表現で同様な事態を説明するとかしないとか)

まぁ、語り手に因るっちゃ因るんですが、でも信じたくなる場面てのはあるんですよね。あとは、ひと言で済みます。暗に事細かに説明したくない人が使う、または説明するとまずい時に使われていた、って経緯もありますよね。(イカサマがばれないように「流れ」ってことをうまーく説明として使ってた、なんてはなしも。)「流れ」を重要視する人たちを「流れ論者」なんて言うこともありました。

ただ「流れ」の話ばっかりになってますが、”オカルト麻雀”とよばれたものはそれだけではありませんでした。

麻雀の『格言』または『定石』



麻雀における『格言』みたいなものも、当時はオカルトの大きな要素とみられていました。

”早い立直は1・4索” ”単騎は西で待て”

麻雀の格言、という位置付けで、僕らが中学生の時分にすらこんなこと言い回しはすでにありました。(ということは突然できた言葉でない限りはもっと古くからはあるんでしょう、とは思います。)

一方で、定石とされるものも麻雀には存在する。(いわずもがな定石ってのはそもそも囲碁の用語で、、、は置いておいて)。”定石”=”格言”である、こともあったり、まったく別だったり。

ただ、定石も格言も永い歴史の中で出来上がってこそ、ではないでしょうか。伝承されてきてこそ意味のある、価値のある言葉、というものでは。例えば麻雀には”立直(リーチ)”という言葉・ルールがありますが、歴史が浅いらしく、武大先生曰くドサ健が広めたルールらしい、ということは麻雀の歴史でもサバ読んでも70年ちょっと。その”立直”という言葉を主体とした格言って、それこそ歴史が浅い。

で、歴史的な観点は置いておいても、現象の説明の不確かさみたいな部分で、”オカルト麻雀”の一部に分類される(されてた)。デジタル勢がだいたい鼻で笑う。

自分周り限定ですが、”格言”的なものを本気で口にしているような人が、大抵の場合にゲームの進行中や結果に対してトラブルを起こす。しかも理不尽に。麻雀とはいわゆる”勝負事”。結果が悪けりゃ、血が飛ぶ、身を崩す。そもそも理屈で物事を図れない人達ですので、そりゃ揉め易くはなるんです。この辺が理論派が同じ麻雀打ちだろって一緒くたにされたくない、と思った要因ではあると思うんです。とはいえ、そんな理論派であっても麻雀で理不尽に人生棒に振った人も数知れず。

ただし、オカルト麻雀というのは、そういう傾向の人たちに対する他称がほとんど、かつそれは軽蔑的に使われる用語であって、デジタルな人たちのように自称するひとはほぼいない。それこそ漫画の主人公にあやかってネタとして自分はオカルトです、ということがあったかも、という程度だったと記憶しています。

眉唾理論

オカルトな麻雀、個人的にはちょっと嫌いな感覚はあります。敢えて乗っかるのもときには面白い場合もありましたが、基本不可解なことをそのまま受け入れたくない性分なので長時間は耐えられない。

不可解なことをさも当たり前のように扱うという意味で、デジタル雀士も実態は大概だったんです。似非理論と呼べる部分が無いわけではない。

一例として、いわゆる何切る問題。

”東2局西家1巡目 ドラ② 四六③④⑤223579東西西 前局上家→下家1000点” 何を切りますか?

頭の体操みたいなものです。問題、と謳っている以上は答えがあるんです。「こういうことが基本だろ!」って言われたりするんです。一人でやってんならそれでもいいでしょうね。自分本位あるいは自分の信じる確率重視で決めればいい。でも、実践ではほとんど役に立たない。というか、場面場面で柔軟でないと、一つの答えにこだわっていては勝ちきれない、とは思います。

何がいいたいのか。麻雀は確かに限られた種類と数で構成された麻雀牌を使って行うゲームではあるし、例えば確かに想定できる場面はあるのは確か。でも、自分自身は必ず”理論”どおり”確率”通りに、動いたとして、そこに確率通りには必ずしも”動いてくれない”他者3人(また2人)がいるんです。しかし、当時居たほとんどのデジタル派、理論派はその点を無視、あるいは必ず理屈通りに動くだろうと勝手に決める。
同じような事例として、4人で囲む(三麻でなく)とすると、25%で勝てる、と云う。実際は違う。下手すると4割ぐらい勝つ奴がいる。でも、長い目で見れば収束するということを高らかに言う。でも、1000半荘とかのトータルでも偏る。全然平均化しない。つまり強い人と弱い人がでる。確率通りにやってれば確かに確率には収まるときはくるでしょう。毎回同じ環境であることが前提だから、ってそんなこと無い。というよりは思考が足りない。前提として切り捨てている、状況を左右するはずの因子が多すぎる、でもそこを採り入れると分岐が増えるから考えない、考えたくない、考えられない。

だいたい、本当に数字に強い人は感覚的に思うわけです、そんな単純化できるはずないじゃん、て。

 

結局、みんな勝ちたくて、じゃあどうすれば勝てるんだろうってそこから始まってる話なのに、何故か、確率通りやってるからいいんだ、みたいな方法の目的化が起きてることに気が付かない。あとは、その裏をかく上手がいることに気づいてるのか、気づかないのか・・。

 

もうあの頃から20年も経ってるんで、もしかすると対戦相手の動きや場面場面のカテゴリー分けなんかももっと柔軟に幅広く考えて、答えが1つにはならないような理論・理屈が現在はあるのかもしれない、のでこの話は当時の話、昔話。しかも自分の周りだけの。

 

ここまで書いておいて今更ですが、本件は デジタル(= Logical) VS オカルト(=Illogical) という構図での話ではないのであしからず。落語の世界線でいうところの ご隠居VS熊さん というレベルのお話。

 

念のため、”お仕事のはなし”にしてみよう

ちょっとだけ仕事のはなしをしよう。



 

自分の、自分たちの正しさを主張する。普通の事だと思います。

殊、麻雀に関して言えば、(自分の経験した範囲では)オカルトな人たちは自己正当化/他者否定はあまりしない。オカルトこそいろいろありすぎてむしろ多様性を許容しあってる、のかも。

一方で、デジタルを自任してる人たちは自分たちの正しさ、正当性を主張しがち、というかオカルトを否定しがち。でも、結局言ってることやってることは表面的でとても中途半端。なのにその点については振り返らないし、深掘れ無い、そもそも付け焼刃(にもなってないか)。

落語みたいに、結果として誰にも何事にも重大な損が出ない世界線であれば、それは笑い話に留まるし、楽しめることです。

 

でも、現実、実害が出てるのをみていて、そしてそれが良き事になっているのを目の当たりにします。現状分析をできない、客観的評価を受け入れない、自己満足を押し付け共感を強要する、もともとの能力が低い上に時間経過で成長もできない、無責任な実行が推奨される。(これ麻雀の話ではありません。)

 

ここまで話しておいて、じゃあお前はどっちなの、というと。(麻雀のはなしです)

根拠も怪しい、分析もあやしい、捉え方も人それぞれなオカルトの方がまだ好き。

中途半端な知識分析感覚的物言い振舞い自己主張無責任に陥る似非知識人は大っ嫌い。

どっちでもいいし、別に他人のやり方は責めない。ただし、その人の中で自己完結していないどころか周囲・他人に害を及ぼすのはホントに許せない。〇逐した方がいいと思ってます。

 

こういうことを言う私が老害ということなのです。老害な話でした。

おしまい

 

あとがき

オカルトにくくると後ろから刺されるので、そうとは言いませんが、麻雀の世界では雀鬼流という、突き抜けた存在もあります。

一貫性のある思想集団ともいえる洗練された麻雀の世界が垣間見れるので、それはそれでお勧めです。(ぼくはすきです)